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「逃げようよ」と彼に言った

彼は暗い夜の灰色をした瞳をこちらに向けて

「いやだよ」

と一言呟いた

ぼくはもうこんなところに居たくなかったのに、彼はどうしても動いてはくれなかった

 

 

「ここは俺たちの聖域なんだ。だから俺は逃げない。逃げる必要がないから。でもどうしても逃げたいのならお前一人でいけ」

「でも地図がないよ」

「お前が描けばいい」

「でも灯りがないよ」

「お前が灯せばいい」

「でもどこに行けばいいかもわからないよ」

「お前が決めればいい」

「投げやりだなあ。君はぼくなんだよ?協力してくれる約束だろ?」

「それでも俺は俺だ。そう決めたのはお前だ」

 


そう言って彼は部屋から出て行った

取り残されたぼくは、テーブルの上にあった水を一口だけ含んで、長い時間をかけて飲み込んだ

小さな天窓からは彼の瞳と同じ灰色の夜空が見えて、それは今にも落ちてきそうで、たまらなく怖かった

 


怖いといつも頭の中で洪水が起きる

人っ子一人いない黒く縁取られたビル群が、ものすごいスピードこちらに向かってくるけど、絶対にぼくには辿り着かない

いつもぼくはあまりの恐怖に街の真ん中で立ちすくんでいて、一歩も動けなくなってしまうのだった

 

 

 

ドアが開いて彼が帰ってくる

手に色とりどりな星々をもって、それをぼくの首にぶらさげた

星々はとっても重くて、今すぐにでも外してしまいたかったけど、なぜか腕は動いてくれなかった

「どうするか決めたか?」

「まだだよ」

「早くしろよ。ここに居たくないんだろう?」

「その前にこの星を外してくれない?重くて重くて耐えられないよ」

「お前が欲しいって言ったんだぜ。俺は見つけてきて、お前に渡すだけだ。それしかできない」

 


彼は向かいの椅子にドッと腰掛けて、ぼくの飲みかけの水を一気に飲み干した

彼のナナフシのような細い指には指輪がはめてあって、コップの結露した水滴の一つ一つが指輪にくっついて僕を見ている

なんだかそれが怖くてぼくは涙が出てしまった

 


「なんで泣く?」

「怖くって」

「何が怖いんだ?」

「ぜんぶ」

「なにを怖がることがある?」

「ぼくには力がないから」

「お前に力はあるよ」

「ないよ」

「あるよ」

「ないって」

「そう思ってるだけだぜ」

 


彼は立ち上がって僕の首にぶら下がっている星を一つもぎ取って、天窓に向けて投げつけた

すると星はたちまち七色の流星に変わって空を灰色から青色に染めてしまった

 


「ほら、言ったろ。逃げる必要なんてないんだ。ここが俺の聖域で、お前の聖域なんだよ。だからほら、まずは立ち上がってみな。やり方を知らないから怖いんだ。太ももに力を入れて、足首と足先に力を入れて、上体を前に傾けろ。厳しいなら両手も使え。もう腕は動くはずだ」

 


彼のいう通りもう腕は動くようになっていた

星はまだ重いけどなんとなく耐えられるような気がする

ぼくは震える両足を手で押さえつけて、勇気を出してグッと立ち上がった。

「できた!」

「…」

「どこにいったの?」

「…」

 


彼はもういなくなっていた

頭の中の洪水も、もう止まっていた